琉球処分とは、明治政府の元で琉球が日本の近代国家の中に強制的に組み込まれる過程である。


琉球処分という明治政府の対沖縄措置は、明治12年の廃藩置県の時点に限定するのではなく、もう少し時間を前後にとって明治政府部内で琉球問題が政治日程にのぼされ、続いて具体的な措置として琉球藩が設置される1872年(明治5年)を始期とし、1879年(明治12年)の廃藩置県を経て、翌1880年(明治13年)の分島問題の発生とその挫折を終期とするほぼ10年間をその時期と考えるべきだろう。

第一段階(1872〜1874)明治5〜明治7年
琉球藩設置および、台湾事件の時期

この時期は宮古島民の台湾遭難事件を口実に明治政府がその報復措置として台湾に出兵し、琉球の属否が問題にされた時期である。 琉球を藩として明治政府に直属させ、琉球が日本に属することを内外に示すことによって、琉球民=日本人のあだを討つための台湾出兵に理論的根拠を与えたのである。

 

第二段階(1875〜1879)明治8〜明治12年
廃藩置県に至る時期

この時期には、第一のいわば外交段階で始末がつけられた既成事実の上に立って、もっぱら内政問題であるとする立場から、この問題を処理しようとする明治政府と、それを不満とする琉球藩当局、さらに清国の抗議介入があり、それぞれの矛盾が一挙に顕在化するなかで、明治政府による廃藩置県が強行される。

 

第三段階(1880)明治13年
分島問題の時期

廃藩置県によってすべて決着が付いたように見えたが、清国の側の抗議は依然として繰り返され、一方沖縄県内においても、置県処分を不服とする士族層の県官に対する投石、清国へ脱走してその救援を依頼するなど、不穏な空気がみなぎっており、政治的決着をつけなければ、県政そのものが頓挫しかねない状況にあった。そのような事態の中で提起されてくるのが、台湾に近い八重山・宮古両島を清国に分譲し、その代償として1871年(明治4年)に締結された「日清修好条規」を改正して、清国内での欧米並み通商権を日本が手に入れようとする、いわゆる「分島・改約」案であった。 この案は、日清両国間の外交交渉の場で正式に日本側から清国側へ提案されたもので、日本側はその案の実現に熱心であったが、1880年(明治13年)10月、清国側の遷延策にあって調印されぬまま廃案となる。

 

以上のように琉球処分は、その初発において台湾出兵と密接に結びつけられ、その結末において、分島・改約案となって現れたように、それは明治政府の内政整備という以上に、むしろ日本の対外進出という契機に色濃く規定されていたものと考えられる。

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